「がんばったら負け」な学校生活

入試「改革」のご提言について(内田樹研究室)
http://blog.tatsuru.com/2009/01/20_1010.php


上の記事を読んで、中学生の頃クラスで感じていた嫌な雰囲気を思い出した。


定期テストの前になると部活も休みになって、
「勉強してるー?」なんて会話が交わされるようになる。
それに決まって返されるのが「えー、全然してないよー」という言葉。


それを鵜呑みにするのはバカだって、大抵の人は知ってる。
どうして毎回そんな嘘ばっかりのばかばかしいやり取りをするのかと当時は思ってたけど、今ならそれもなんとなくわかる気がする。


そこで「勉強してる」なんていうと何いい子ぶってるんだと思われてしまうのだ。
今でもそうかどうかは知らないけれど、私の知る十数年前の中学生の間では、ちょっと不良な方がかっこいいという雰囲気が全体としてあった。
ただ、本当にちょい不良なんて子は数人で、あとはその周りに集まっているだけの普通の子だった。
普通の子は本当に不良にもなれないし、実際にはテストでいい点取ってなるべくいい高校に行った方がいいと思っている。だけど、そんなことを口に出せば周りから浮いてしまうので努力なんてしてないふりをする。要するに空気読んでるだけ。
それと、本人たちはそこまで考えてはいなかったと思うけれど、「勉強してる」なんて言ったら他の人に危機感を抱かせ勉強しなければという心的圧力をかけることになり、結果として競争相手を強くしてしまうから、それを避けるために無意識的に擬態を取っているというのもあったかもしれない。


ただ、一方で学年トップクラスの子たちは「勉強してない」なんてどうでもいい嘘はつかなかったし、他の子たちのように嫌々勉強しているようにも見えなかった。
私立の進学校に行っているような中学生は違うかもしれないけれど、普通の公立の中学生にとっては勉強は「何の役に立つかわかんないけど高校行くためにとりあえず点数必要なもの。大学?何それおいしいの?」くらいのもの。
身に着けた知識よりも、点数を取ったことによって入った学校=ステータスの方が重要に見えるから、余計にがんばって勉強している人というのが打算的に見える。


今こうして思い返してみれば、そうして意味もわからず勉強させられて一生懸命空気を読んで生きていかなければならなかった「普通の子」たちを哀れましくも思うけれど、当時はこの低下方向への同化圧力の強さ、努力していることを素直に認められず陰口を叩く空気の悪さがたまらなく嫌だった。


学ぶこと、今まで知らなかったものごとを知ったり技を身に着けること自体は本来誰にとっても楽しいものだと思うけれど、幅広いレベルの生徒が40人もいる教室で一様に教える今の学校にその学びの楽しさが伝えられるとは思えない。
「基礎的な学習は何に役に立つとか言うのは馬鹿げてる。いいからやっとけ」という人もいるけれど、それはその後を知ってる大人の理論、もしくは最初から学問に楽しみを見出せるエリートの理論で、普通は何かの役に立つとわかって初めて勉強の意欲ってのは湧くものだ。この勉強がこの先のどういう世界に通じるのかは教えてしかるべきじゃないだろうか。


本の学校教育のスタイルはもう50年以上基本的な部分は変わっていない。
時代はどんどん移り変わっているのに、学校だけが昔のままで取り残されている。
ゆとりだの詰め込みだのと表面的な点数の上下で右往左往して教える内容が変わって、本当に今の時代に何をどのように教えるべきなのか考えれていないような教育を黙ってやれと言われたって子供もそりゃやる気になれない。
一度根本に立ち返って何が必要かを考え、基礎からシステムを組みなおす必要があるのではないだろうか。
教育は国家百年の計、ですよ。