卑屈な人々とアフリカの憂鬱

アフリカはなぜ発展しないかというChikirinさんからの記事から話が盛り上がってる。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20100207
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20100208/p1
http://anond.hatelabo.jp/20100209065146
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51398020.html

一連の記事を読んで、ああ、彼らは卑屈なんだと思った。

人はどうすると卑屈になるのだろうか?
結論から言うと、自己を認められない人は他人を認めることができない。卑屈な人というのは、優れた人を見ても、「あの人はすごい。それに比べて自分は……」とその人のすばらしさを素直に見ることができず、必ずそこから一歩歪んでしまう。その人をうらやましいと思うくせにそれを認めることができず、反対に卑下することで心の安寧を保とうとする。別にそこで自分と比べる必要など全くないのに、比べては落ち込み、余計に自分に自信をなくす。
人と人との間に差異があることを受け入れている人というのは異なる人、異なる物事を素直に見ることができるので卑屈にはならない。

どこの社会にもこうした卑屈になってしまう人というのは一定数存在するけれど、おそらくアフリカではその層が他の国々より圧倒的に多いのだろう。

また、彼らは徹底した平等を求めるとという。それを読んで、なんというか、まるで小学生のようだと思ってしまった。
どこの学校でもあるんじゃないだろうか?ちょっと先生が一人の子に余計にかまったりするとすぐ「不公平だ!差別だ!」みたいになってしまうということが。あれを思い出した。
結局小学生なんていうのは、学校という全員横並びの環境もあるけれど、まだ自我の認識が薄く人との差異を受け入れられていないからそういうことを言い出すんだろう。それでも日本では、大人になっていくに従って多くの人はそんなことは言わなくなっていく。まあ今のところはと言った方がいいかもしれないが。

http://anond.hatelabo.jp/20100209065146
の記事では、何でも人のせいにし、与えられるのを当然と思うような言説が最近日本でも目立つような気がするという。経済が落ち込み、社会が停滞し、仕事が得られないとか望むような生活ができないという人が多くなり、自信を失っている人が増えているんだろうと思う。

自信の欠如、喪失が人を卑屈にするのであれば、彼らが自分たち自身を認めらてあげられるよな成功体験が必要なのかもしれない。これはある程度、下の記事の言ってることにも通じるかもしれない。
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51398020.html

「国としての自信」というものを、私たちは歴史上に求める。だから、日本でも国が苦しい状況になってきたような今なんかは、苦境を超えて近代化を成功させた幕末から明治維新の頃の話なんかが盛んに取り沙汰される。ああやってできたのだから、またできるはずだと自分を鼓舞する。

アフリカにはそうした自身を鼓舞できるような寄る辺が歴史上にないのだろう。あるいは、過去にそういった個別の事例がまったくないとは思えないけれど、それが現在の国家とは繋がらないから共有できないか。

ともかく、国家としての成功体験なしにはアフリカが停滞から脱出することはできないだろう。しかし、国家として成功するための地盤がない。それで無限ループに陥っている。この無限ループを断ち切るには、地道な手としてはやっぱりありきたりなところに行ってしまうけれど、教育しかないように思う。すべての子供たちに教育を施し、産業の従事者になるようにする。ただしその地道な対策が実を結ぶには、先進国などに搾取されたと思ってしまわないような環境を作らなければならない。現代の国家というのは基本的には営利を追求する団体だから、この最後のハードルは相当高い。
あるいはもう、大金持ちの個人とかが国なり地域なりまるごと買い取って個人の趣味的な慈善事業としてやるとかしかないかもしれない。Chikirinさんのは言い方もあってたくさんみんな釣れたけど、結局それ以外に大して有効な策をみんな思いつかないのがアフリカの悲しい現状を写してるんだろうなあ……。


*「アフリカ」と一括りにするのはあれだけれど、個別の状況をよくしらないのでここでは便宜上「アフリカ」とまとめさせてもらいました。